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座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」(1)結成時代

座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」(2)創世期

座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」(3)活溌なクラブ活動始まる

座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」(4)活溌なクラブ活動始まる

座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」
(1)結成時代

平成19年4月17日 於/シーホークホテル
【主 催】PR委員会
【発言者】L古賀 L三野原 L岡本 L宮田 L中村

座談会1結成時代
座談会1結成時代
石田PR委員長 本日はPR委員会のほうで勝手に指名、出席をお願いしましたが、ご多忙中にもかかわらずご出席下さいまして有難うございます。これより座談会の司会進行を藤副委員長にお願いします。

 わがクラブが結成されてから22年目になります。またクラブの季刊誌「黒田かわら版」も70号を発行いたしました。この機会にクラブの歴史をふりかえってみよう、結成当時の初心に戻り、またこの座談会の記事を掲載することにより多少マンネリ化した会報に活をいれたらという意味もこめて企画いたしました。
それではスポンサークラブの福岡舞鶴LCからエクステンションして新クラブを結成する前後の経過から始めたいと思います。転籍チャーターメンバーでもっとも先輩の古賀さんからどうぞ。

古賀 私は三野原和光さんの父上・敏治さんが福岡舞鶴LCで会長をされていたとき幹事をしていた関係で敏治さんを尊敬もし、親しくしていただきました。村上薫ライオンが国際会長になられた時など、福岡舞鶴LCご出身ということで敏治さんと私は村上さんの付き添い、秘書というような立場でアメリカに行ったり、いろいろのエピソードがあります。その尊敬する三野原敏治さんから昭和61年の秋頃、ライオンズの組織を広めるため、新しい会員を増やすためにエクステンションをして新クラブを作ろう、福岡舞鶴LCから30名位の転籍会員を募り、古賀さん、あんたが20名位の新会員を集めなさいと非常に真剣な相談がありました。当時福岡舞鶴LCは日本で一番ではないかと言われる位の会員数で、230名位はいたと思います。これは、国際親善大使で福岡舞鶴LCの創立者でもあった貝島義之氏の「大きなクラブでなければ大きなアクトはできない。目標は300名のクラブだ。」という信念が一貫してあったからです。私は敏治さんの意向をうけて、私がスポンサーをして福岡舞鶴LCに入会した人々に内々転籍の意向を確かめるなど行動を起こしたのですが、その直後に病気で入院、手術を受けることになり動くことができなくなりました。その後は岡本さんや三野原和光さんが中心になって事態は進み、岡本さんは毎日のように病院に来て情報を伝えてくれ、そのことは今でも感謝しています。
(S46年10/15入会)


 尊敬されていたお父さんの不肖の子(笑)三野原さん、次をどうぞ。

三野原 やりにくいですなあ。とにかく福岡黒田LCは福岡舞鶴LCから見れば三番目にできた子クラブで、一番目が福岡第一LC、二番目が福岡城東LCです。福岡舞鶴LCからエクステンションして新クラブを作ることにはオヤジも強い意欲を持っていたし、私も新しいクラブで若返ることは賛成でした。オヤジに同調する人も多く、その人たちのなかで新クラブの初代会長にオヤジをおそうという考えがあったようです。ただ、私は福岡舞鶴LCで平木ライオンが会長の時(S59年7~S60年6)幹事をされていた関係で平木さんの人柄などよく知っていましたので、新クラブでは初代の会長には平木さんを、幹事には結成に苦労された岡本さんを、そうなれば新クラブで一番骨を折るかもしれないが私が会計を引き受けようと腹を決めていましたが、結局その通りになりました。(S50年3/18入会)

 それでは岡本さん、いままでのおふたりの話をまとめてみて下さい。

岡本 少し順序だてて話してみたいと思います。
福岡舞鶴LCは250人の会員をスポンサーして国際会長賞を受賞した貝島義之さんが初代会長として昭和46年6月19日に結成されたクラブで、昭和53年には265名の大クラブになり、昭和56年6月、会員の村上薫ライオンが日本人初の国際会長に就任したという名門中の名門クラブです。当時の日本の経済発展につれライオンズも会員の増強、クラブの拡張が当然の目標として掲げられていました。福岡舞鶴LCでも創立5周年に福岡第一LC、10周年には福岡城東LCをエクステンションし、着々と実績をあげておりました。昭和61年秋頃、創立15周年にあたるのでそろそろエクステンションを考えようという話し合いが顧問会のなかで行われました。福岡舞鶴LCの顧問会というのは歴代会長で構成されていて、理事会とは別組織ながらクラブの運営には力がありました。当時の会長は前福岡県知事の亀井光氏で第一副会長が古賀さん、私は一年理事でした。亀井さんは会長という職に大変張り切っていらっしやいましたが不幸なことに任期半ばの9月に亡くなられました。この不測の事態にクラブは会長経験者で幹事だった緒方豊吉さんを副会長を飛び越えて後任会長に指名しました。
これを機にエクステンションの話が一気に表面化し始めました。エクステンションを進めたいキャビネットも介入しはじめ、東京からは、ライオンズ国際協会日本駐在員事務所所長の堀越さんも度々来福されるようになりました。この組織は現在はありませんが、当時は日本の各地区のクラブの世話役・相談役の立場でエクステンションなど積極的に勧められていました。私も何度もお会いし、お世話になりました。
私は最初エクステンションには反対で、理事会や顧問会のなかでも主張しましたが、流れは止められず話はどんどん具体化してゆきました。転籍会員は10名位、あとは自分たちで作るようにとか無茶な詰もでました。私も、三野原敏治さんや盟友の和光さん、私のスポンサーである古賀さんらと行動を共にするよう腹を決めていたので、転籍会員はどうしても30名は必要とねばりました。この間、頼みの古賀さんは入院、和光さんと根回しに走り廻りました。結局全会員にアンケートをとることに決まりましたがその結果、我々が希望したとおりピタリ30名の転籍希望者がありました。その中には矢頭五平さんなどクラブの長老、重鎮などの方の名前もあり我々を勇気づけたものです。
しかしそれからが本当に大変でした。堀越さんから転籍メンバーの数より多くの新会員を獲得して下さい。それもチャーターナイトまでにという指導がありました。つまり30名以上の会員を勧誘しなければなりません。責任上、私や三野原和光さんは必死でした。私は19名の新会員を勧誘しました。ここに居られる宮田さんや西野さん、野口さんがそうです。
昭和62年5月21日結成会、8月18日に西鉄グランドホテルで桑原市長などそうそうたる来賓を迎えてチャーターナイトを行った時は会員数65名の堂々たるクラブでした。平均年齢46歳と実に若々しいクラブでした。新クラブ創立アクティビティとしてLCIF基金の募集を考えたのですが、新会員にLCIF基金そのものを説明するのに苦労しました。幸い皆さんにはかったところ20名を超える会員からの寄附が集まり、おおいに面目をほどこしたものです。発足時から、このクラブでは絶対に顧問会や会長会を作らないと誓ったものです。結成が5月なので7月からの2期目も平木会長、岡本幹事で引き続きつとめました。『黒田』という名称は藤さんが名付け親です。スポンサークラブから独立するために分けてもらう財産のことなどもいろいろありましたが、次にゆずります。(S53年7/13入会)

三野原 新クラブの名称をどうしようかと結成メンバーで住吉会館に集まり夫々持ち寄って確か18ぐらいの案が出たと思います。『黒田』の名称については270年福岡を治めた藩主黒田家の『黒田』を名乗るのは明確に福岡のクラブということを示すし、全国的にも認められ誇りもあるということでこの名称に決まった。内々黒田家の了解も得たのではなかったかな。

 宮田さんはクラブ結成の時からのチャーターメンバーですが、入会の動機とか入会されてライオンズをどう思われたか聞かせてくれませんか。

宮田 福岡で会社を経営している以上、いずれはロータリーかライオンズに入会しなければいかんとは考えていました。その頃、岡本さんが経営しているお店によく顔を出していた関係で親しくしていましたが、その岡本さんからライオンズに入らないかと熱心に口説かれました。よく聞いてみるとロータリーは毎週例会があって出席がきびしいとのこと、これでは仕事にさしつかえるしライオンズの例会は月2回とのことで入会を決めました。最初はなかなか良い雰囲気で楽しかったのですが、3年、4年とたつうちに少しづつ不協和音が気になりだしました。そのうち互親会という若手の会ができて、最初のうちは親睦会でしたが、だんだん理事会や執行部に不満を持ち批判するムードになってきました。私は8代目(H5年7月~H6年6月)の会長をつとめましたが、若手会員の意見をくみ上げることに努力し脱落者が出ないように努力しました。もっと広い視野でライオンズを理解してもらうためにスポンサークラブの福岡舞鶴LCとの合同例会も行いました。(S62年5/21入会)

岡本 あの企画はなかなか良かったですね。

 新クラブの結成に際していろいろ力を貸して下さった方々について少し話をして下さい。

岡本 それはまず先にお話しした堀越駐在員と思います。福岡黒田LCの誕生のため度々東京から来福され、いろいろ知恵も貸していただきスポンサークラブとの話し合いの仲介に立っていただいたり真剣に応援してもらいました。後の話になりますが、同じ黒田家に縁があるからと言って邑久LCと友好クラブになるきっかけを作ってくれたのも堀越さんです。

 ガイディングライオンになられた佐田愿さんのことについて古賀さんから。

古賀 佐田さんは中間のご出身で実におだやかな方でした。クラブでも中道の道を守られた方で、もし亀井会長が亡くなられなかったら福岡黒田LCに入りたかったと云われるほど親身にクラブの面倒を見ていただき、福岡黒田LCが立派なクラブであるということを地区や国際本部に報告してもらいました。ご本人はガイディングライオンであつた一年間、何もすることがなくて助かりましたと喜んでおられました。

 さっきから度々話題になっていますが、福岡舞鶴LCから立候補して国際会長になられた村上薫ライオンのことについてもっとも身近にいた古賀さんからどうぞ。

古賀 村上国際会長は京都の方で若い頃は都新聞、後の京都新聞の記者をされており、裏千家の千宗室門に入り茶道に精進され、後には裏千家ゆかりの全国的後援団体である淡交会の会長をつとめられたほどです。余談ですが、アメリカの茶道のブームのきっかけを作られたのも村上国際会長だと思います。ライオン歴も古く数々の要職を重ねられ335地区からおされて国際会長への立候補を考えられたそうですが、他にも候補の方がおられ同地区から2名は立候補できないとのことで困っておられました。奥様との関係もあって福岡舞鶴LCの貝島義之ライオンは村上国際会長をよく知っておられて、人格・風格とも立派、おまけに英語・茶道に堪能ということですっかり惚れこみ、京都でダメなら九州で立候補したらどうかと福岡舞鶴LCへの転籍を勧められ、村上国際会長も喜んで応じられました。

岡本 実はこの時九州地区でも鹿児島の故谷川さんが立候補の予定でしたが、貝島さんからの話でいさぎよく辞退されたそうです。この方も立派ですね。

古賀 村上国際会長は多忙ななか福岡舞鶴LCの例会にもよく出席されました。

 私は昭和53年10月16日の入会ですが、戴帽式の時ライオン帽をかぶせていただいたのは村上薫ライオンで、その時はすでに第三国際副会長だったんですね。そんな偉い人とは知らず会食の時は隣に座って、昔、都新聞におられたと聞いて、私も当時新聞社にいたこともあっていろいろ雑談をしたことを思い出しました。

三野原 私も元会員の馬場さんとニューオリンズで当時国際会長の村上さんに会って挨拶したことがあります。

古賀 村上国際会長は福岡舞鶴LCに在籍しながら第二、第一副会長と順調に進まれ、昭和56年6月、日本人としては初めて国際会長に就任されたのです。7月9日、福岡舞鶴LCの10周年記念式典に国際会長として村上薫ライオンを迎えた時の晴れがましさと感激は今でも忘れられません。その後の国際会長の、全世界を巡っての精力的な活躍と残された数々の業績については皆さんもよくご存知ですので省略しますが、永年の激職の疲れがどっと出たのか、国際会長退任後間もなく病いを得て亡くなられました。国際会長の輝ける功績をたたえる唯一の遺品として国際会長旗がご夫人から福岡舞鶴LCに贈られ、全国クラブの唯一のホーム旗として福岡舞鶴LCの例会には必ず飾られています。

 ところで、よく世間で比較されるのがロータリーとライオンズですが、この違いについて三野原さんから。

三野原 ひと口で言うならロータリーはアイ・サーブ。ライオンズはウイ・サーブ。みんなで一緒に奉仕しようという理念です。昔は会長さんがロータリー、社長さんがライオンズというように分かれていたようです。それだけにライオンズは若々しく行動的でした。今はそのようなことは全く無くなってどちらが格が上だとか言う人はいませんね。20年前、ライオンズはロータリーに先がけて女性に門戸を開放したのですが、我々は緊張しましたね、イヤでも紳士にならざるを得ないとね。

古賀 当時のライオンズは貝島さんの力もあって福岡財界の実力者が次々と入会されました。例えば九電の瓦林さん、西銀の森さん、西鉄の楠根さんなどで、そうなると大企業の専務さん常務さん方も入会されるということになり、実はこのような事態を一番心配されたのが故三野原敏治さんでした。このままではいかん、もっと若い人たちを入会させて新しいクラブを作らなければという熱い気持ちを持たれ、頑固なまでのその信念が福岡黒田LCの誕生につながった原動力だと思います。そのため敏治さんから、古賀さん、決してムリをしちやいかんよと何度も言われたものです。

三野原 この席でナンですが、古賀さんは本当にオヤジの気持ちをよく理解して下さったと思います。オヤジに代わってお礼を申し上げたい。本音を言いますと福岡舞鶴LCで第一副会長だった古賀さんを新しいクラブの会長にしたかったんです。

岡本 それは私も同じだったのですが、古賀さんが病に倒れられて仕方がなかった。でも元気になられて、平木さんの後をついで3代目会長になられたのでよかったじやないですか。

三野原 エクステンションするということは本当に大変なことです。今の福岡黒田LCのような仲の良いクラブからは本音のところエクステンションはしたくないですね。

 キレイでみんなから本当に祝福されるエクステンションはそうざらにあるものではないと思います。

中村 あなたは次期の地区会員・エクステンション委員長予定者で、エクステンションをすすめる当事者じやないですか。(笑)

 まだいろいろ話題はつきないと思いますが、今日のところはこのへんで終わらせていただきます。
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座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」
(2)創世期

 前号で我がクラブの結成時前後の様子について座談会をいたしましたが、クラブ内は勿論他クラブの方々からもいろいろ参考になったという評価を得ました。ついてはその第2部ということで再び皆さんに集まっていただきました。本日のテーマは結成から5年までくらい、つまりクラブの創世期ということになりますが5周年の記念式典を催しました時に発行した記念誌を参考にしながら話を進めたいと思います。
まず今秋めでたく結成25周年を迎えられます姉妹クラブ邑久ライオンズクラブと我がクラブが平成2年5月24日、友好クラブ締結調印式を行うに到った経緯についてご発言をお願いします。
(註)この件につきL古賀、L岡本、L三野原、L田中(治)、L木下など当時の関係者から次から次と活溌な発言や意見が述べられたがここではこれらの発言に加えて当時の理事会、委員長会議事録、さらに「黒田かわら版」No3、No4を中心に、友好クラブ締結に到る経緯を順を追って辿ってみたい。

友好クラブ提携に関する検討が開始されたのは平成2年2月6日、西鉄グランドホテルで行われた定例理事会で、会長は4代目のL吉永幸雄、会計L松尾邦彦(退会)、幹事L川崎登志男(退会)だった。
勿論、それまで友好クラブを作ろうという話はあって台北のクラブなど候補に上がったが相互訪問が困難ということで国内のクラブから選択しようということになった。そこで吉永会長は我がクラブ創立の時、大変お世話になった当時のライオンズクラブ国際協会日本事務所の堀越恒男所長が全国のライオンズクラブのことに詳しいと知って同所長と親しかった理事のL岡本健三にこのことを依頼した。折りよく来福された堀越所長にL岡本が相談したところ、岡山県の邑久ライオンズクラブが福岡藩藩祖、黒田官兵衛(如水)の先祖とゆかりのあるクラブと判り、そのうえ幸いなことに同クラブのL貫名が堀越所長と早稲田の先輩、後輩ということで仲介の労をとっても良いとの承諾を得ることができた。
L岡本より報告を受けた吉永会長は、秋にわがクラブの5周年記念式典を控えているときでもあり、ことを急ぐ必要ありと判断、この件を3月6日の理事会にかけ、友好クラブ選択の第一希望クラブに岡山の邑久ライオンズクラブとすることの承認を得た。ついで3月20日の委員長会でも承認を得るとすぐさま吉永会長名で堀越所長あて次のような要望書を提出した。
(前文略)

先般、貴下来福の折、ご協力をご依頼致しました件、私どもクラブのL岡本より報告受けさせて頂きました。「報告」を基に理事会で検討審議の結果、福岡黒田ライオンズクラブとして友好クラブ選択について下記の通りの結論に達しました。依って、左記クラブ希望案に添って、貴下のご仲介の労を賜ればと願っております。



336|B地区 邑久ライオンズクラブ。
[希望理由]福岡黒田ライオンズクラブの名称由来に顧み「黒田家」と因縁深い地域、備前国邑久郡福岡(岡山県長船町福岡)は我が「福岡市」の地名由来の地であり、「福岡藩」由来の地でもあります。と述べ、
さらに追文として※友好クラブ提携希望は、当方の前記「希望理由」で一方的希望ですので「邑久LC」の意向を含め、ご仲介の労、よろしくお願い致します。なおL藤が作製した黒田官兵衛の曽祖父、高政が近江の黒田村から備前の福岡に移り住んだ歴史的考証なども添付して我がクラブの熱意を示している。
右の要望書は直ちに堀越所長に渡され邑久ライオンズクラブに伝えられた。黒田官兵衛、長政公が縁結びの神様になられたのか話はトントン拍子に進み、我がクラブでも4月6日の理事会で正式に承認された。なおこの日発行された「黒田かわら版」3号(編集責任者、L山口勲(退会))に幹事のL川崎登志男が“友好クラブ地域の観光、歴史案内”を3頁にわたって紹介している。何しろ一部の会員の中には邑久をオクと読むことさえ初めて知った人も居た位だった。この中では長船町、邑久町、牛深町の三ヶ町を詳しく紹介している。例えば、日本のエーゲ海といわれる瀬戸内海のリゾート地、牛窓。大正ロマン抒情画家・竹下夢二の生まれた邑久。一千年の伝統を誇る日本刀のふる里、長船。黒田官兵衛父祖の墓のある妙興寺、一遍上人絵伝で知られた福岡の市跡などである。
理事会承認を得ると直ちに提携打合わせのため、4月8日、吉永会長、岡本理事、川崎幹事が岡山に出張、邑久LCの雪吉会長やL貫名など幹部の方々と「友好クラブ提携議案」の調整をはかり、双方異議なく合意に達した。
善は急げとばかり5月23日は邑久LCから雪吉会長以下14名(会員数40名)の方々が来福された。大喜びで迎え、その夜、天神の料亭、芙蓉で催された友好クラブ締結調印前夜祭の歓迎ぶりは「黒田かわら版」No4(6月19日)で写真5枚も使って華々しく掲載されている。
歓迎会に先だって、この調印式に至るまでに陰になって仲介の労をとっていただいた堀越所長に対し、吉永会長から感謝状を贈り深甚なる謝意を表した。
席上、雪吉会長は挨拶に立って「四百年の昔、我々の先達が交誼をなしたことと同じ様に又、今日ここに太い糸で結び合うことが出来ることは大いなる慶びであります」と語り、「さらに過日、L木下正と岡山の地で共にライオンズであることで、行きずりに一時の語らいをした人が、この黒田LCの人であろうとは!」と不思議な縁についてのエピソードを披露された。
このことについて座談会でもL木下がいろいろ記憶を辿って発言されましたが、改めて文章を寄せていただいたので紹介したい。
“邑久との御縁”というタイトルで、「平成元年十一月二十五日の事でした。たまたま東京、名古屋、京都、四国の旅行中、岡山駅で四国行きの列車を待って居りました処、隣に座った邑久LCの雪吉会長とお逢いしたのが御縁です。その時は僅かな時間でしたが邑久には黒田家の墓地や、福岡の地名発祥の地等、我等黒田の名を持つルーツの地と云うことを知りました。
このようにしてライオンズバッチの取り持つ御縁で意気投合し、その時の印象が深く脳裏に焼きついて居りましたので、この四月、友好クラブの話が出た時、どうせ友好を結ぶなら御縁の深い邑久クラブということになり、トントン拍子に事が運びました。

調印式に当たり、雪吉会長より和歌を頂きました。
  相共に育てヽゆかむ官兵衛の
絆にむすぶライオンズクラブ

これに対し木下より
  ふる里の邑久を友ぞと希いきて
咲きし黒田の藤ぞ嬉しき

と贈りました。

翌6月24日、晴れやかな青空の中、市内見学、黒田官兵衛ゆかりの地「福岡舞鶴城址」「西公園光雲神社」、「よかトピア博覧会跡地」などを案内。
待望の「友好クラブ締結調印式」を西鉄グランドホテル・舞鶴の間で邑久LC14名、黒田LC45名と地区役員及び市内兄弟クラブLの出席のもと、厳粛に挙行、滞りなく式典は進み、締結調印の署名、捺印が終わる中、両会長の固い握手に、しばし鳴りやまぬ拍手の中、いつまでもにこやかな顔、顔が続いていた。
(黒田かわら版No4より)
この歴史的な背景を有する両クラブの結びつきは社会に関心を呼び、福岡では西日本新聞が、岡山では山陽新聞が写真入りで大きく報じた。
その後、黒田LCでは邑久LCの期末例会が岡山ホテルで6月23日行われるのを機に交歓訪問を行った。参加者22名。
それからは毎年4月は邑久LC招待の桜見例会と岡山の観光地見学など、また11月には黒田LCが、大相撲の九州場所招待など両クラブの家族ぐるむの合同例会が行われた。
両クラブの懇親は年ごとに深まり、平成5年9月25日、福岡の博多エクセルホテルにて、黒田LC宮田可成会長、邑久LC平原順二会長の間で、めでたく姉妹クラブの結成調印式が行われた。

(註)座談会後半の我がクラブで創立後5年ぐらいの間に行った活気ある数々のアクティビティについては次号に掲載予定です。  L藤司会
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座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」
(3)活溌なクラブ活動始まる

座談会3
 前号ではわがクラブと岡山の邑久クラブとの友好クラブ、さらに姉妹クラブへと提携が進んでいった経緯について語っていただきました。
このことは福岡、岡山の地元紙も報道しましたが、ライオンズクラブのなかでも大きな話題になり、平成2年6月23日、わがクラブから当時の吉永幸雄会長はじめ会員および夫人の一行22名が始めて邑久クラブの岡山を友好訪問した時の記事が写真入りで日本のライオン誌8月号に2頁にわたって紹介されました。
タイトルは「福岡藩祖・黒田長政が縁結び・時代を超えて友好の絆を結ぶ、福岡黒田クラブと岡山県・邑久クラブ」というものでした。
それでは次の話題、クラブ結成の昭和62年5月21日から5年間ぐらいの若々しいクラブの奉仕活動を中心にした活躍のあとを辿ってみたいと思います。
結成記念として先ず一番に行ったのはLCIFへの基金で、これは個人19名が参加した他クラブにも例を見ないもので、金額も260万という額で地区の34回年次大会でアクティビティ(金銭奉仕)で優秀クラブ賞を授与されています。この精神は今でも我がクラブに脈々として引き継がれています。
また急速に大都市化していった福岡で増加する交通事故を懸念して、県の交通安全協会へ「交通安全教育フィルム」を寄贈しています。わがクラブは交通安全には特に意をつかい平成3年(会長・三野原和光)の時は70万円をかけて大量のフィルムを協会に寄贈をしています。
結成2年度(会長・平木敏雄)の時の特筆すべきアクトとして福岡市が設立したばかりの「福岡コンベンションビューロー」へ、チャーターナイト記念事業の一環として50万円の基金を贈呈したことです。これは我がクラブと縁の深かった当時の桑原敬一福岡市長が発展する福岡市に国内外の多くの会議、催事を市で開催するよう呼びかけようと提唱したPR機関で、わがクラブもこれに積極的に賛同したものです。
ライオンズクラブが恒例の行事としている街頭献血運動にも結成時から参加しています。「黒田かわら版創刊第一号に平成元年、8月4日、サンセルコ広場で行われた街頭献血の様子を元保健副委員長のL川崎健次郎が報告しています。34.4度という炎天下、39名の会員が参加、献血者は163名とあり、会員の奉仕に対する熱意が伝わってきます。
昭和63年10月、ライオンズデーに第一回福岡城址清掃奉仕を行っています。(写真参照)
写真は39名ですが記録は42名の参加、紅葉の気配のなか、静寂で広い城内を隅々まで清掃するのは大変な労働でしたが楽しい奉仕でもありました。明治青年会員賞をもらっておられた故三野原敏治氏や故矢頭五平氏も元気で参加されていました。
昭和63年2月に福岡県立福岡盲学校に盲人用パーソナルコンピューターを寄贈しております。これについて翌年8月、元指導力委員長の土橋十四男が同校を態々尋ね校長に会って、その活用ぶりを聞いたことが「黒田かわら版」に記載されています。それによると我がクラブの寄贈が呼び水になって、その後、柳川盲学校に読売新聞が同型のコンピューターを寄贈するなど善意の輪が広がりつつあることや、このことがきっかけで県が特別予算を組んでくれたのでコンピューター教室を新設したことなど校長の口から我がクラブへ大変感謝しているとの報告でした。
ここまで初年度、2年度にわたって労力、金銭のアクトを簡単に述べて参りましたが3年度(会長・古賀和馬)に入っても福岡城址清掃奉仕(35名参加)やLCIF寄付(7名)など活溌に続けられました。
古賀さん、記憶に残っているような奉仕活動について話していただけませんか。

L古賀 一番の思いでと言えば平成1年の3月、今のソラリアホテルの場所にあった福岡スポーツセンターへ「和白青松園」「福岡こどもの家」「福岡育児院」の子供さん達を付き添いの人も含めて225名も招待し、一日里親をしたことです。確かポリショイサーカスだったと思いますが初めて見る子供達は大変な喜びようでした。しかし何しろ躰体の不自由な子供達が多く、30名の会員はその世話にかかりきりで舞台を見る暇などなかったことを覚えています。家に帰ったら背広まで汗ぐっしょりでした。

司 会
 本当にご苦労さまでした。ところで古賀さんの時の最大の労力奉仕は百道浜で開催された「アジア太平洋博覧会」ではなかったのですか。
座談会3
L古賀 その通りです。そのため他のアクティビティはやれなかったくらいです。「アジア博」別名「よかとピア」は福岡市と全市民が全力を挙げて取り組んだ一大イベントでした。337A地区のライオンズクラブでも全面的にこれに協力することになり各クラブにも細かく奉仕の日程や作業の指示があり、平成1年3月から9月までの半年間に黒田クラブの会員は交代で会場に朝から夕方まで詰めて入場者の世話をしたわけで大変な労力奉仕だったと思います。

司 会 この半年間のわがクラブからの延べ動員数は1774人と記録にあります。私も何回も出勤(?)しましたがあれだけ会場を走り廻ったのに博覧会そのものはじっくり見たという記憶がありません。

L三野原 イヤー、あの世話は本当に大変でした。入場口の傍の天幕の中で待機しているわけですが続々入ってくるお客さんの要望で車椅子、ベビーカーの貸し出しをするのですが一時に殺到されるのでテンヤワンヤ。雨でも降ると傘の準備も必要、足りなくなってお客さんに怒鳴られることもしばしば。迷子探しに走ったこともあります。夕方になると広い会場に置きっぱなしになっている車椅子やベビーカーを探し廻り、こわれた物などを整理して明日のために備える。帰る時は口もききたくないくらい疲れました。「よかとピア」が国内の博覧会としては予想以上の動員数を記録し、大幅増収をみて福岡の名を高らしめた陰には福岡ライオンズの力も大いに役立っていると自負しています。
座談会3
司 会 「アジア太平洋博覧会」への労力奉仕は4年度の執行部(会長・吉永幸雄)まで引き継がれてゆくことになります。非常に多忙ななかで9月19日、「黒田かわら版」創刊号が発行されました。吉永会長は自ら題字を書き、創刊の辞として
どうかこのクラブ会報が「出席率の向上、委員会活動の活性化」の導火線となり、ひいてはライオニズムの高揚に寄与することを期待して止みません。と述べています。
この期の最大の功績はなんといっても平成2年5月24日、岡山の邑久ライオンズクラブとの友好クラブの締結をしたことですが、このことについては座談会前半でいろいろ発言がありましたので省略いたします。
このように多忙な年でしたが恒例の街頭献血や福岡城址清掃(3回目)なども実施されました。それ以外にも「西日本アメリカンフットボールに協賛し、福岡海洋少年団200名を招待した。」と記念誌にありますが当時、レクレーション委員会をしておられた石田さんからどうぞ。

L石田 あれは青少年の健全育成のために何か良い案はないかと知人で当時西日本新聞夕刊のコラム「くるま座」を執筆しておられた益田憲吉さんに相談に行ったところ、それなら丁度良い。西日本新聞民生事業団が招待したアメリカンフットボールの試合に協力してくれ。ということになったのです。これは新聞記事にもなり、幸い手許に古いキリヌキがあるので読んで下さい。

司 会 石田さん。その年の11月、精薄者更生施設「板屋学園」入所者へ無料整髪理容を実施していますね。

L石田 それは黒田クラブの会員に中村武羅夫という方が居られましてネ、ヒゲを生やして声の大きな人でしたが、この方が九州理容連合会会長だったということで言い出された奉仕でした。
昔のことで私もよく覚えていませんが板屋学園というのは筑紫耶馬渓の上流の方で確か大博多カントリーの近くの山の中にあったと思います。中村さんがワゴン車で5・6人の若い理容師さんを連れて来られ、実に手際よく入所者の人達の散髪をされ、さすがにプロだと感心して見ておりました。所長さんがこんな不便な所まで態々来ていただいて。と大変感激しておられたのを覚えています。

司 会 地味ですけど良い奉仕だったですね。その他「アジア太平洋こども会議イン福岡」へ30万円の支援金贈呈とか「福岡いのちの電話」へ50万円の寄付をするなど金銭アクトでも相当思いきったことをやっていますね。

L中村 創立4年目のクラブでそれだけのことができたというのはクラブ全体が若々しいライオニズムに燃えていたのと当時の日本経済が拡大の一途を辿っていたという時代背景もあったからでしょう。また80名近い会員に今よりも高額だった年会費なども潤沢な資金獲得の原因だったと思います。しかし、それにしても次から次とすばらしい奉仕ですね。
(以下次号)

(註)この文のなかには座談会での発言のみでなく、後で電話取材をしたり聞き書きした個所もあります。
文責 L藤
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座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」

(4)活溌なクラブ活動始まる

座談会4
座談会4
司 会 さてわがクラブも結成5年目、平成2年7月から翌3年6月まで、会員も75名と大型クラブに発展、しかも時代はバブル絶頂期、就職戦線は超売手市場、そのような日本経済の好況のなかこの一年のアクティビティの多いこと、また内容の濃いいことは黒田ライオンズクラブ23年の歴史のなかでも特筆すべきだろうと考えます。
会長は三野原和光さん。幹事は田中治雄さん。会計は宮田可成さんというメンバーで、特にテールツイスターで、今でもKBCラジオで活躍しておられる栗田善成さんなどが居られました。
主なアクティビティをあげてみますとまず8月にパキスタン難民医療救済団体「ペシャワール会」へ支援金50万円を援助していますがこれは三野原さん、何のきっかけですか?。

L三野原 今でこそ「ペシャワール会」はアフガン戦争のなかで難民のため病人の治療に当たり、子供のため学校を建て、炎天下に多くの井戸を掘り、とマスコミの報道で、指導者の中村哲先生の名前とともに、日本中の人が知っていますが20年前は殆どの人が知りませんでした。私は同じ医療関係に携わる者として知人の紹介で彼と彼の奉仕精神に感銘を受け、しかも中村先生が地元出身(西南学院卒)ということを知り、少しでもお役に立とうと、例会場に来てもらい会員の皆さんに話を聞いてもらって支援金を贈呈したのです。

司 会
  中村哲先生も大変感激されたようで「かわら版5号」にお礼の言葉を次のように述べておられます。
「本当の奉仕とは、心と心のふれ合いの中より生まれてくるものと信じます。金があるから“出してやる”と言うのは少し違うのではないでしょうか。本日、黒田LCの方々のこのような真心のこもった援助をいただき、ペシャワール会の我々の仕事が又、一つご理解いただけたことを心より感謝申し上げます。」
その後、毎号「ペシャワール会」の会報がクラブ全員に送ってくるようになりましたね。
会員の健康診断などもやっておられますね。

L西野 私がその時の保健委員長でしたが例会を利用して二回行いました。人間40歳を過ぎると半年に一度は検診が必要、働き盛りのLの皆さんにも健康には十分気をつけていただきたいとの思いから実施したものです。当時の三野原会長の「油山病院」や退会されましたL今任の「若久病院」の先生方や看護婦の人達が多忙な中、応援していただきました。

司 会  あの年の納涼例会は今考えても随分思いきったことをやりましたね。ガバナー公式訪問の例会ということもあってお招きした7R・RCのL辛島幸雄が5周年記念式典の祝辞のなかでその時のことを述べ、黒田クラブの会員同士が心を開く雰囲気や家族と一緒に心温まる催しを眼の当たりに見聞しました、とほめていましたね。

L田中(治) あれは民営化で発足したばかりのJR九州自慢の企画で、「パノラマカー・欧風客車サザンクロス」と称していました。夕方、博多駅を出発、沿線を廻って午後10時22分に博多駅着という4時間の旅です。実施したのは8月21日、車窓から見える夕日の景色が見事でした。

L三野原 あの時は殆どの会員が家族連れで貸切の車両も満席でした。気学の山下万里江、寺田のり子両先生も招待して話を聞きましたが、とにかくカラオケ大会、ビンゴゲームと物凄い盛り上がりようでした。ビンゴゲームではL石田のお孫さんのカナちゃん(当時7歳・今は一児の母)が全部大当たりで大喜びでした。我々三役(L三野原、L田中、L宮田)は、JR九州から借りた制服、制帽(写真)姿で車内を廻り、サービスにつとめたり、子供さんの世話をしたりしましたが、ドネーションも随分ありました。

司 会  「かわら版5号」はその納涼例会の楽しそうな家族の方の写真でいっぱいですね。第一回目のYE派遣生として山田千恵子さんを送り出したのが7月で、街頭献血、10月には4回目の福岡城址清掃と続きますね。LCIFの個人献金も10名と多いです。11月18日、会長の父上で、福岡黒田ライオンズクラブ創立の最大の功労者L三野原敏治が80歳の生涯を閉じられました。「かわら版6号」は特集を組んでその生涯を偲びました。
その悲しみのなか邑久ライオンズクラブ16名の来福、例会出席があり慰労をかねて正富会長ほかの皆さんを大相撲九州場所へ招待、友好を暖めました。
5周年式典を目前にした平成3年の1月11日、多忙のなかを三野原会長以下20名近い会員が韓国・慶州の「ナザレ園」を訪問、慰問していますね。
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L三野原 「ナザレ園」は韓国に取り残された日本人妻と云われる不幸な人たちが当時の反日感情のなか、善意の人々の助けで暮らしておられる施設です。日本からの援助もなく困っておられるとの話を聞いて慰問したわけですが、50万円の援助資金は勿論ですが、みんな年老いたご婦人ばかりで、身体の不自由な方々も多く、私たちの訪問を泪を涙して喜んでくれました。

L田中(治) お金だけでなく心のこもった慰問をと思って店から持参した材料で、目の前で生菓子など作って食べてもらいましたよ。

L西野 あの時はびっくりしました。社長さんが自ら菓子作りでしたから。手際も見事だったですよ。

L三野原 最後にみんなでふる里の童謡を歌ったのですが涙、涙で別れるのが本当に辛かったですね。

司 会 良い話を有難うございました。「ナザレ園」には翌年も慰問に行っていますね。あなた方の善意が実って、平成19年の秋、日本政府は、ナザレ園の宋美虎園長に「旭日双光章」を贈っております。
同じ1月ですが5周年記念事業としてチャリティバザー「卸商社の倉庫市」をやったんですね。

L三野原 5周年記念のアクト資金獲得に必死でしたからね、幸い会員の川崎浩海さんが倉庫を会場として貸そう。販売する絨毯など大物から小物まで揃えていただけるというので助かりました。
二日間やったのですが会員もよくお客さんを勧誘してくれてよく売れたと思います。129万も稼いだのですから。

司 会 いよいよ5週年記念式典が平成3年2月15日、西鉄グランドホテルで行われたわけですね。大会会長・三野原和光、大会実行委員長・平木敏雄で桑原敬一福岡市長を始めとする来賓、邑久LC正富会長以下7名、337A地区から28クラブ、286名の出席という盛大な式典となりました。式については記念誌に詳しいので省きますが、記念事業として、ひかり共同作業所へ30万円、福岡県交通安全協会へ教育フィルム贈呈70万円。ここで特記したいのは福岡城址へ記念植樹・平安神宮京都紅しだれ桜として350万円の目録を桑原市長に渡し感謝されたことです。これについてどなたか発言を。

L田中(治) 福岡の前市長進藤一馬氏が会長をされていた「福岡さくらの会」というのがありますが、そのなかで福岡城内を桜の名所にという話があり、それをうけてわがクラブでアクティビティしようということになったのです。黒田LCの名に恥じない由緒のある桜にということで値段も高かったのですが京都から態々取り寄せたものです。
植樹は春、3月5日、30名の会員が出席、木柱の記念碑も建てました。雷もついた若木10本で新聞社やテレビ局も取材に来たほどです。その後、一本枯れましたがL宮田可成が結婚記念日だからといって寄贈してくれたり、平成11年になってクラブから再び植樹して現在13本となっています。すっかり巨木となり素晴らしい桜並木となりましたが記念碑も無くなり残念です。

L中村 それは早速立派なのを作りましょうや。北古賀会長、市の公園課に交渉して下さいよ。

L北古賀 話を聞いてよくわかりました。さっそく取りかかりましょう。
(註)この件は直ちに実行に移され、平成19年12月、黒御影石に「寄贈・黒田ライオンズクラブ」と彫刻されて桜の下に設置された。

司 会 5周年記念式典という大事業を抱え、数々のアクトを立案、実施されたこの期の執行部に敬意を表して、本日の座談会を終了しますが、最後に持出し例会が初のご夫人同伴で湯田温泉で行われたことを付け加えておきます。有難うございました。
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座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」(1)結成時代
座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」(2)創世期
座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」(3)活溌なクラブ活動始まる
座談会「福岡黒田ライオンズクラブの歩み」(4)活溌なクラブ活動始まる